神秘を“見出す”のか“授かる”のかー「ヒルマ・アフ・クリント展」
神々が住まい、山岳信仰が今なお残るとされる屋久島の山。
樹齢は2,000年〜7,000年ともいわれる縄文杉を目にしたとき、その佇まいの美しさに心を奪われた。
目の前にみえている縄文杉だけでなく、聞こえてくる水の音や木々の揺れる音、あたり一面に漂う水の気配。
そこには、目にみえるものだけでなく、みえない“なにか”が存在するように感じさせられる。そうした自然を肌で感じ、身を置いたことで、いにしえの人々の気持ちにすこしだけ触れられた気もした。
そうした目にみえない“なにか”を表現する手段の一として、抽象画がある。
東京国立近代美術館で開催されている「ヒルマ・アフ・クリント展」では、彼女が霊的な啓示を受けて描き上げたという作品たちが一堂に介する。
先入観があるからかもしれないけれど、代表的な作品群である「神殿のための絵画」には、円や矩形、螺旋、植物などのモチーフ、文字が描かれ、なんともいえない神秘的な雰囲気が漂う。
特に、人生の4つの段階(幼年期、青年期、成人期、老年期)を描いた、高さ3メートルを超える〈10の最大物〉は薄暗い室内の空間の雰囲気も相まって、まるで別世界へ迷い込むようだった。
屋久島の自然とヒルマ・アフ・クリントの作品群はまったく別物。それでも、それぞれに神秘性を感じた自分がいる。
屋久島では自然の中に神が宿ると感じ、ヒルマ・アフ・クリントの作品では神の言葉を受け取るように感じた。そこには、神秘を“見出す”のか、“授かる”のかという違いがあるといえるのかも。
人が神秘を感じるって、いったいなんなのだろう。そんなことも思う。
ちなみに、その数日前にみた、ジョアン・ミロの作品にも自然に基づく象徴的記号が登場するけれど、ヒルマ・アフ・クリントのような神秘的な印象は受けなかった。同じ抽象画でも、描こうとする“みえない何か”が違えば、その表現もまったく異なるのだと実感した。