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矢印が導き惑わすー「私たちのフォロン」


東京駅などのターミナル駅を利用するとき、私は矢印なしには目的の線に辿り着けない。

○○線の文字と矢印をしっかりと目で捉え、自分で選んでその道を選んでいるというよりも、自分を自動化している気持ちで矢印に沿って進んでいく。

途中で○○線の表示がなくなることもあり(そういうこと、ありますよね??)、「え、なんでないの!?このまま進んでいいの……?」と不安になる。

ジャン=ミッシェル・フォロンの作品でも、たびたび矢印が登場する。《都市のジャングル》では矢印が絡みつきながら氾濫し、進むべき道を示しているようで人々を混乱させる。矢印が持つ二面性を表現する描き方に、「わかる、わかる」と、妙に納得してしまう。

そうした矢印の捉え方について、名古屋市美術館で開催中の「私たちのフォロン」では、矢印は人々を混乱させるだけでなく、「数ある矢印の中で立ち止まり、想像することの自由、そして自分自身で選択することの可能性を見せてくれるのかも」と解説する。

たしかに、矢印には立ち止まらせる力があるから、それは選ぶ自由にもつながるのかもしれない。でも、今の私には、進むべき道を示すことも惑わせることもあるなんて、矢印って天邪鬼なツールだなという気持ちのほうが強いかな。

もう一つ、フォロンの作品のシンボルともいえるのがリトル・ハット・マン。フォロンによれば、「私に似た誰か」であり「誰でもない」存在なのだとか。興味深いのが、群衆状態になると人間性が失われ、個でいると人間性があらわれること。そうした様相は、身の回りでも実感することがある。何者でもなく、何者にもなれるのは、矢印同様、コインの裏表みたい。

フォロンは、これらのモチーフを繰り返し用いながら、様々なテーマを自在に表現していくのが巧み。そうした相棒となるモチーフがあるのが羨ましいな。

名古屋市美術館での「私たちのフォロン」は2025年3月23日まで。その後はあべのハルカス美術館(大阪)で2025年4月5日から。