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ホストでもゲストでもない曖昧さ


7月末から2週間、あるゲストハウスでヘルパーとして2週間滞在した。ゲストハウスによっては宿の手伝いをするかわりに宿泊費が免除される「フリーアコモデーション」と呼ばれる仕組みがあり、それを利用する人をヘルパーと呼ぶ。

私が今回ヘルパーを経験したゲストハウスでは、チェックアウトした部屋と水回り(シャワー室、トイレ、洗面所)の清掃をすることでドミトリーの1つがあてがわれた。

そもそも今回ヘルパーとして滞在しようと思ったのは、別の土地での暮らしを疑似体験したい気持ちがあったから。ヘルパーなら宿泊代を浮かせられることで長めに滞在しやすい。実際、2週間過ごしたことで買い物はここ、散歩するならここ、とそこでの暮らしをイメージしやすかった。

少し時間が経って2週間を振り返ると、ヘルパーとしての滞在は今の自分に合っていたと思う。

1つは生活リズムを整えやすいこと。清掃時間は10時から15時までだけど、ゲストが少ない時は作業量がさほど多くなく、さらにもう一人ヘルパーがいるときは作業の分担ができる。そのため、ほとんどの日をお昼くらいには終えることができた。それ以外の時間をどう使うかは自由なので、私の場合は10時までにまずはMTGや執筆をして、清掃が終わったらお昼を食べて近所のカフェで本を読んだり、共用スペースで仕事をしたりして過ごしていた。合間の清掃がいいメリハリとなり、それを起点に前後の予定を立てやすかった。

もう1つはホストでもゲストでもない曖昧さがあること。完全なホストではないから、スタッフ不在時にゲストから質問されたら、わかる範囲であれば答えるし、わからないものはここに電話してスタッフさんに聞くといいとですよと伝える。そして完全なゲストでもないから、誰かが出発する時には「いってらっしゃい」と声をかけやすくも感じた。

おそらく、こうしたどっちでもない曖昧さがストレスになる人もいるかもしれない。でも、その曖昧さがむしろ気楽なものと捉えられるならば、何者でもない宙ぶらりんな立場に身を置くことは人生の一休みをしたいときにちょうどいいと思えた。

ヘルパーは労働や生産性と完全に切り離されているわけではないけれども、かといって多くのことは求められない。そうした状況は一休みしたいときだけでなく、これから再び自分と社会をつながりなおそうとするときの補助線としても機能しそうな気がする。

止まり木としてのゲストハウス』(晃洋書房、2024年)の著者・鍋倉咲希は、藤原辰史の『縁食論』(ミシマ社、2020年)の子ども食堂の説明「公共空間というにはクローズドで親密空間というにはオープン」(藤原、2020、137ページ)を引用しながら、「開放性と閉鎖性の境界が曖昧になる場所は、コミットメントを求める強いつながりとも、他者を孤立させる無関心とも異なるかかわりを人びとにもたらす。」(鍋倉、2024、209ページ)ことを述べている。  

曖昧な場所における曖昧な立場は、それまでの自分の境界を揺るがす可能性もあるのではないかな。

当初、ゲストハウスはリーズナブルに泊まれる宿の認識のみだった。けれども、今回の経験から社会との結び直しの場や機会でもあるという視点を得られ、それを実感できたことが自分にとっては収穫だった。