『時代が締め出すこころ――精神科外来から見えること』
ここ数年、生きづらさの言葉がとても身近になったように感じる。調べると、実際にその言葉を掲げる論考が増えているのだとか(※)。
もはや、生きづらさを感じない方が少数派なのではとすら考えてしまう。もちろん、自分が目にする世界に偏りがあるのは承知の上で。それでもなぜ、生きづらさを感じる状態が当たり前に感じられるまでになっているのだろう。
精神科医の青木省三氏は『時代が締め出すこころ――精神科外来から見えること』で次のように述べる。
「精神科医になって三〇余年、その短い間にでさえ、時代は変化した。一人ひとりにかかる圧力は強く、一人ひとりを護るものは少ない、人が孤立し孤独になりやすい時代になってきたと感じる。今の時代に追いつめられている多くの人がいる。しかも追いつめられた時、こころの病気や障害という形となって現れやすいのが、現代という時代の特徴ではないか。」
時代の主流派や多数派に合わない人が、病気や障害として生きざるをえなくなっていて、以前なら「普通」とされていた人が「普通」から弾かれるようになった。生きづらさ=「生きる幅の狭い世界」であり、許容範囲が狭まったことで生きづらさの範囲が相対的に拡大している……。
ただ、主流派や多数派に合わない人の生きづらさは今に始まったことではないようにも思う。むしろ、そうした人たちの存在は以前なら「なかったこと」にされていたのではないかな。
『コミュニティを問い直す』も読んでいると、生きづらさは個人の問題というよりも関係を築きづらい環境の要因が大きいと感じるので、また整理したい。
※ 藤川奈月「『生きづらさ』を論じる前に : 『生きづらさ』という言葉の日常語的系譜」『北海道大学大学院教育学研究院紀要第138号』2021年、359ページ。